サンデースクールのキャンプで精霊を求めて友達からバカにされた話。結局は自分は何を信じるかが大切だと気づいた経験。

こんにちは偽物クリスチャンです。

本日は偽物クリスチャンがサンデースクールに通っていたこどもの時の話をしたいと思います。サンデースクールよりキャンプに行き、そこで初めて精霊という言葉を意識しました。スピリチュアルな人間ではない偽物クリスチャンが初めてスピリチュアルになろうとした話です。残念な苦い結果になってしまった思い出ですが、そこから本当に大きな物を学べたと感じた話です。

偽物クリスチャンが信じる、キリスト教のプロテスタントでは三位一体説という説を信じております。三位一体とは『神(イエス・キリストの父)』『イエス・キリスト』『精霊(ホーリースピリット)』という形で神は現れているが全ては共通のものであるという考え方です。
人生で初めて行ったサンデースクールのキャンプ

偽物クリスチャンがまだ小学校4年生の時のサンデースクールから初めてキャンプに連れて行って貰った時の話です。偽物クリスチャンが通っていたサンデースクールのキャンプは小学校高学年より参加が可能という決まりだったので、その年が初めてのキャンプの年でした。偽物クリスチャンには2年年上の兄がおり、兄よりキャンプはとても楽しいと聞いていたのでとても楽しみにしておりました。今でもその時の記憶は忘れません。
キャンプは2泊3日のキャンプで田舎にある大きな教会の施設を借りていろんな教会の子ども達が集まってみんなで交流を深め、遊ぶというものでした。一日目は川で遊び、カレーなどをみんなで作って食べ、夜はキャンプファイヤーをみんなでするというとても楽しいものでした。偽物クリスチャンは育った場所が本当に都会だったということもあり、普段の生活で自然に触れる機会がめっぽうなかったのでそれはそれは新鮮で楽しいものでした。またいろんな教会からいろんな子供たちが集まって来ていたので、そこでできた友達と遊べるということも本当に楽しかったのです。
もしその時、完全に一人でキャンプに参加していればおそらく不安な気持ちもあったと思いますが二年年上の兄と同じサンデースクールの友達も一緒に参加していたので不安などなかったのです。

初めて意識した精霊という存在

そんな楽しく過ごしていたキャンプの最後の夜に、サンデースクールのキャンプということで完全に自由参加でみんなで祈るという会がありました。その祈りの目的が精霊を迎えるということでした。キャンプの前に聞いたサンデースクールのメッセージで『精霊と共にあるとどんなことも可能になる』という話を聞いていました。当時の偽物クリスチャンは特によく意味もわからなく、精霊を体に宿すとどんなことも可能になるんだと思い、あまりよくわかっていませんでしたが精霊を求めました。(今考えれば、これは洗脳教育に当たるのかなと考えましたが、当然洗脳教育に当たるといっても過言ではありません。しかし、これを洗脳教育と行ってしまえばテレビや学校で学ぶ『人の目を気にして、恥ずかしくないように生きる』という考え方なども、全ては結局洗脳教育にあたるので問題はないのかな?)
偽物クリスチャンの性格の問題もあるかもしれませんが、どうせ祈るのなら真剣にということで必死で祈りました。

精霊の代わりに得たもの

その夜、みんなで大広間の中、自分の祈りたいように祈り続けたのですが一向に精霊は自分には来てくれませんでした。終了の時間が近づいてきたので、大きな声に出して心の底から祈りをささげました。しかし、結局最後まで精霊は偽物クリスチャンのもとには来ませんでした。正直精霊が来たと言っている人がいたかどうかは覚えていませんが、精霊が来たという実感がなかったのだけははっきり覚えています。そんな夜が終わり次の日に待っていたのは精霊ではなく、友達たちからのひやかしでした。当然そのキャンプにいた人達が全てクリスチャンというわけではなかったので、真剣に祈っている姿を見ておもしろいと思いからかってきたのです。そのころの偽物クリスチャンは子どもだったので、それを恥ずかしいことと認識し精霊を求めることをやめました。

以上で偽物クリスチャンの思い出話は終了です、ここからは上記の経験より学んだことを書いていきたいと思います。当然、当時はただ恥ずかしかったという思い出しか残りませんでしたが今考えれば本当にいろいろ学べました。

サンデースクールのキャンプから考えること

自分の信じた価値観を最後まで信じる

精霊が偽物クリスチャンの元へ来たか来なかったかは置いておいて、ここでの問題点は偽物クリスチャンが真剣に祈りに取り組んだということを冷やかされ、その行動を恥ずかしいと思ってしまったことです。小学生なので仕方ありませんが、やはり人は何か自分が信じるものがあれば他の誰が何を言おうとそのことを自分の誇りをもって信じるべきだと思います。日本の文化は特に周りの目をとても気にするので、なかなか難しいかもしれませんが自分をしっかりもつためにもとても大切なことだと考えます。偽物クリスチャンの場合はイエス・キリストを信じ、精霊を求めたという自分の行動にしっかり自信をもっていればきっと恥ずかしいと思うことはありませんでした。つまり、恥ずかしいという思いを感じたのは自分自身がその行動に自信を持っていなかったからです。自信を持っていれば、きっと恥ずかしいとすら思わずに自慢できる体験になったことでしょう。

なりたい自分を想像し、行動を習慣にする

偽物クリスチャンはクリスチャンになりたいと思っています。
ただ、偽物クリスチャンはとても弱い人間なので簡単にクリスチャンになることができません。いつの日かなるために、どんな偽善だと思うような行動も意識的に行っていきたいと考えています。人は行動を続けることにより、行動が習慣となり、習慣が人格となり、人格が人生となると考えているからです。なので、常に自分がどのようになりたいと考えて行動するのが自分の思い絵描く人生を送る一番の近道だと考えています。しかし、そのお手本を見つけることが本当に難しいのが世の中です。間違ったお手本を真似ると大変なことになってしまいます。多くの場合は自分自身の両親を真似るという子どもが大半なので、リプロダクションと呼ばれる両親と同じ人生を歩むという現象が起こります。(母子家庭や父子家庭をもつ子どもが生涯で離婚を経験する確立は、そうでない家庭で子どもと比べて統計学的にとても高い確立になるという研究結果でています。)

結局、誰をお手本に生きればいいの?

上記で述べたように、お手本を見つけることは本当に簡単なことではありません。なぜなら人は完璧ではないからです。しかし、偽物クリスチャンの場合はクリスチャンの家庭に生まれたので、幸か不幸か人生の教科書(聖書)がすぐ身近にありました。そして、イエス・キリストという人物を参考にして、自分もそのようになりたいと考えました。その当時はあまり実感はできていませんでしたが、今は本当に感謝なことだと思っております。自分のポジティブな思考回路や、人に愛を持って接することができるのは全て聖書からイエス・キリストの行動を真似たいと思ったことによるものだと考えています。みなさんも、もしあなたの周りに尊敬できる人がいないとすれば一度、教会に一度イエス・キリストを探しに行ってみてください。きっと新たな考え方と友達にであえること間違いありません。

まとめ

真剣に何かに取り組むということは、どれだけ誰かからバカにされても恥じることではありません。それを恥ずかしいと思ってしまった時点で、恥ずかしいことになるからです。自分が信じた道を真っ直ぐ進み幸せな人生を歩んでみてください。もし、どのように人生を歩めばいいかわからなくなった時は自分が歩みたい人生を歩んでいる『誰か』を参考にしてみて下さい。ただし、どんな立派な人間でも(たとえ教会の牧師でも)人は完璧ではないので偽物クリスチャンはイエス・キリストを参考にすることをオススメします(´・ω・`)
みなさんの人生が素晴らしいものになることをお祈りしております。

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